日本のものづくりにおける産業は、国の経済成長に大きく発展を遂げてきました。
なんて、お固いメディアとかで目にするような文章から始まりましたが、実はこの「ものづくり産業」において、日本人のもともと持っている慣習や国民性のようなものが、知らず知らずのうちに「良くも悪くも反映されていた」という個人的な見解とか思ったことがあります。
生活を豊かにするための道具のはずが、道具に遣われている
日本の各方面のものづくりにおける品質は、たった半世紀の歴史の中で、世界のあらゆる分野から高い評価を得られてきました。
テクノロジーの分野ひとつとっても、きめ細かな品質、性能、安全性などで、世界の産業に大きく貢献してきました。
しかし、私たち(ここ半世紀前後の間に生まれた人)は当たり前のように家電とか道具に囲まれて生活をしてきて、ときに「ツールの奴隷」になり、人生の何よりも大事な貴重な有限な「時間」を蝕まれたり、犠牲にしたことも多かれ少なかれ、現代人の暮らしをしている限りあります。
例えば、完全に成熟した携帯電話。
15年くらい前の端末は、各メーカーはとにかく色々な機能をつけて市場を盛り上げていきました。
15年前の携帯端末で何ができたか?何をするために買うか?
メール、電話
最低限、これができればよかったわけですね。
そしてこれを使うために、操作を覚える必要があります。
端末の作り手は、「便利で使いやすく」を意識たつもりが、実はユーザにとってみては、「そんな機能不要」という余計なお世話的なことがたくさん搭載されていたりします。
そんな中で、カメラ付き携帯が出たときには、非常に価値のあるものでした。
滅多に開くことのない説明書には300ページくらいの解説がありました。ほとんどの人は、絶対に使うことのない機能が、8割以上はあったと思います。その機能を知ること無く次の機種に買い替えていく。
こういったことが繰り返されてきたと思われます。
知らず知らずにテクノロジーによって人生の貴重な時間を蝕まれている
何が言いたいか。
「良かれ」と思った日本人的な「おもてなし精神」が、こういったことでは、逆に余計なお世話になっていることもあります。
または、機種の価値を上げて売上を上げるための、機能追加だったり、大人の事情が絡んでいたこともあるでしょう。
「余計な機能が多すぎる」=「ツールの奴隷になる」
ということは結果的に人生を豊かにするツールから知らない間に、人生の貴重な時間を蝕まれていることになっている場合が多くあるということです。
家電製品でも、余計な機能や知らない機能って多くないですか?
この分、安くしろよ、または、こんな機能があったなんて・・・
と気づくことも多いですよね。
ユーザのリテラシーが追いついてないうちに色々な機能をつけても、企業は儲かるだろうけど、ユーザにとってはまさに機会(機械)損失です(汗)
ものづくり産業にも、その民族性が反映されてしまう
中学のときの国語の教科書に、こんな一節があったのを今でも覚えています。
教科書の内容は欧米と日本の食事を比べて、文化や慣習の違いについて書かれたものでした。
例えば、食事の場合、欧米が「肉とポテトだけ」
だとしたら、日本は「幕の内弁当」で何でもあります少しづつということが美とされてきた。と。
どちらが、良いとか悪いの問題でなく、それぞれの慣習で長所も短所もあるということです。
日本は何でも受け入れるから、「色彩豊かな国」として発展したという結果があるんだと思います。
それに比べて欧米は特化型ということになると思います。
ここで問題なのが、「日本の何でも受け入れる精神」や「色彩豊かさの思考」で、ツールの機能に反映させるから、おかしなことになっているのかなぁと思うんです。
ツールはあくまでも、補助的役割だからその目的に特化していないといけません。
あれも、これも、と盛り込んでしまうと、使う側が混乱してしまいます。
民族性をコラボすれば分野によっては最高の製品になる可能性がある
何かの洋画を見ていたら、オフィスのシーンがあり、OA機器の操作に戸惑っている人がこんなセリフを言っているのが印象的でした。
「日本製は機能性は最高だけど、操作性は最低だ!」
このシーンを見たときに思いました。
世界中のメーカーとコラボすれば、あまり民族性や国民性に依存しない製品であれば、効率の良い生産やより良い製品ができると。
例えば、
日本の製品は、品質に優れている。
欧米の製品は、操作とか効率性に優れている。
これを上手く組み合わせれば、製品によっては本当に素晴らしいものがデキることは間違いないと思いますよ。
今、ここで、この道具に本当に必要なものとは何か?
使う人はどんな人?
何のために使う?
もちろん、メーカーもこれを基本に考えて作っていると思いますが、今後、必要なことは「不要なものは何か」をピックアップして、「捨てていく」という「引き算」の思考がものづくりには必須になってくると思うんです。
生きるため、人生を謳歌するための「ツール」であることをもう一度深く見直す時代のど真ん中にいると思います。
選択肢があればある程、行動にブレーキがかかる理屈と似ているような気がする。
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